目を向ける先

◎惑わされない

 

前回のブログで地震について「西日本」と書きましたが、北海道でも東北でも、地震についてはなんらかのきっかけさえあれば、いつでもどこでも可能性はあります。

 

そうした情報に惑わされないことが、今この時期においては、意味のある取り組み となっていきます。

 

自然災害を機に、目を向ける先を「自分」にできるかどうか が、一つのステップとなっていくからです。

 

それ以外の何に向けたとしても、あらゆる存在にとって それぞれの最終的な局面 で出てくるのは、後悔でしょう。

 

逆にいえば、そこに目を向けさえすれば、これから先の いかなる局面 においても、後悔少なく過ごしていけるでしょう。

 

 

 

◎自分に目を向ける

 

ひろかねさんとお話をしながら私なりに考えるようになったことの一つに、物事がシンプルに考えられる ようになるためには、ここ(自分に目を向ける)を押さえていかないとどこかで行き詰る、というものがあります。

 

エゴのチェックとコントロールという言葉をここではよく使いますが、自分に目を向けられていないからおかしなことをしてしまいますし、そこをチェックして改善していかないことには、よくなるはずもないのです。

 

因果応報という仕組みも、「自分に目を向ける」ことをしてないと、「わかっているつもり」で終わらせてしまい、自分に役立てられるような理解になっていないはずです。

 

 

 

◎唯一無二

 

分離感のあるエゴの立場で、他者(「自分以外」に思える周りにある様々なもの)に目を向けても、それらは数限りない上に、常に変化し続けています。

 

そこには、神も含まれます。

 

それらに目を奪われていては、永遠に振り回され続けられかねません。

 

しかし、唯一無二の自分 に目を向けたうえで、周りのものごとも見ていけるようになれば、それぞれのやったことがそれぞれに返ってくるだけ、ということがわかってきます。

 

すると、例えば、過剰なお節介をしなくなって、我慢するわけでもなく、黙って見守るようなことができるようになっていきます。

 

 

 

◎二元性を越えていく

 

生きづらくなることをやれば、生きづらくなることが自分に返ってきます。

 

生きやすくなることをすれば、生きやすくなることが自分に返ってきます。

 

返ってくるその内容を通して、自分が納得いくように考えて行動すればいいだけです。

 

前者を 業(カルマ)といい、後者を といいます。

 

(※「徳」も含めて業(カルマ)というのかもしれませんが、このほうがわかりやすいだろうと判断して使いました。)

 

そこから、「善悪はない」と思えるようになっていけば、生きやすいも生きづらいも自分の都合による勝手な判断ですから、(※)で書いたような「業(カルマ)」や「やったことが返ってきた」などのように、あれこれややこしく考えなくても、シンプルな一言で理解できるようになっていきます。

 

意識の進化を求める方 にとって、「二元性を越えていく」ためのヒント になるといいですね。