「自分で考える」ことと「搾取」について

つづき

 

前回は子供と親の関係性で書きました。

 

そこでは親でしたが、本人に思い込ませることができる存在を「力があるもの」という表現をつかい、以前「善悪について」の中で書いてもいます。

 

今回は前回からの続きとして、子供のその後の流れとして読んでみてください。

 

 

 

自分が無い生き方

 

思うようにいかないからこそ、私たちは頭を使って考え、体を使って動き、少しでも思うように生きられるようにしようとします。

 

しかし、「思うようにいって当たりまえ」と思い込むようになると、自分が虚ろになります。

 

ともすると、自分が無い生き方にもなります。

 

なぜなら、思い込みで生きているので、自分で判断しないからです。

 

自分で考えないので、自分がありませんし、自分を生きてもいません。

 

 

 

身近な搾取

 

因果応報という仕組みの中では、行動に基づいた結果がでますが、それは動いた分だけエネルギーが動くということです。

 

自分で考えない生き方をしていると、日々の生活での取り組みは、思い込ませたもののために動くことになります。

 

思い込ませたもののために動くので、思い込ませたものにエネルギーが流れていきます。

 

その時、動いた人が自分自身のために考えて動いていなければ、自分自身に返ってくるものは大してありません。

 

それが身近な搾取という仕組みです。

 

 

 

無意識に選択していること

 

搾取自体は程度も様々で、ニュースで見かける以上にもっと暴力的で直接的な搾取もあるでしょうし、前回書いたような親子関係であれば、恵まれた環境での搾取という言い方になるかもしれません。

 

誰かの都合を優先する思い込みで生きることで、搾取構造にはまりこんでいくのですから、自分で判断して自分を生きるようになっていけば、搾取の仕組みから外れていきます。

 

基本的には行動の主体が自分なのですから、自分がやりたいようにやれればいいだけであり、誰かのせいにする必要はありません。

 

誰かのせいにするうちは、自分で自分のために考えて生きることを疎かにしているで、搾取から離れていくなりのことをしていない分だけ、搾取構造の中に居続けることになり、それを無意識に選択しているのです。