神の愛と全肯定

無くならない存在

 

永遠の存在としての私たち、という考え方は、精神世界を知るようになると、多彩な表現で目にすることがあります。

 

それが実際にどこまでそうなのかは確認のしようがありませんが、私の体験として、

 

「私たちが全体の一部として存在しているということは、神さまは私を消すことはできない。たとえ神さまであっても、存在するものは消せない。」

 

と気づいたことがありました。

 

魂は永遠であることを実感して納得できた瞬間でしたが、それがずっと理解し続けられているわけではありませんので、まだ理解が足りていないのだと思います。

 

 

 

神の愛

 

その永遠性の中であり続けられるのは、一般的に言われている言葉で表現すると、神の愛があるからという言い方になるでしょうか。

 

神の愛とは、私たちを存在させている働き、と考えています。

 

存在するにはエネルギーが必要です。

 

エネルギーが無くなれば存在しなくなる、そういう働きの中で私たちは生かされていると考えています。

 

 

 

愛を否定する私たち

 

以前、宇宙全史のどこかに書かれていたと思うのですが、「愛の概念が捻じ曲げられた」という言葉があり、「それを正すこと」とも書かれていたと記憶しています。

 

上記の愛についての考え方からすると、存在するものは神の愛によるもので、愛の働きによってエネルギーを送られ続けています。

 

存在するものをすべて認めることが、全体を正しく見ることであり、ありのままを認めることであり、神の愛を正しく認めることになると考えます。

 

しかし、エゴの私たちは見えないものを認めない、嫌いなものを無視する、都合の悪いものは否定する、視野が狭く他の考え方を受け入れない、未熟でありながら見えているものしか信じない、都合のいいようにしか解釈しない、そうしたことを日常的に行っています。

 

これらは、存在しているにもかかわらず、その存在を否定する態度なので、「神の愛が捻じ曲げられた」に該当するものです。

 

 

 

愛を認めて幸せになる

 

私たちは、そうした様々な存在に対する否定を、常日頃から行っています。

 

しかし、神の愛は「存在させること」だとしたら、私たちが否定することは神の愛を否定することとなります。

 

そこで、「正すこと」を考えると、「否定を減らして存在を認めること」が、神の愛を歪めて捻じ曲げられたものを正すことになるのではないでしょうか。

 

全肯定の考え方は、神の愛を正しく認める考え方といえるかもしれません。

 

全肯定の「否定を減らすと幸せになるよ」ということを、「神の愛」という言葉と絡めて考えると、それまで否定していた神の愛をどんどん肯定していくことで愛があふれて幸せになっていく、と考えれば納得がいく方もいるのではないかと思います。

 

全肯定の肯定と否定について、多少考えやすくなればと思い、今回は書きました。

 

 

 

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余談です

 

本日、ひろかねさんのおかげで、一つ気づきがありました。

 

理性を越えたものを認める、ということがわかりました。

 

自分が経験していることの中だけで腑に落ちたことなので、どこまで通用する理解かわかりませんが、けっこうすっきりしたため、記録として残しておこうと思います。