『徳(とく)』の付け替え 後編

方向性を見失わないこと

 

現状の取り組みで目先の損得に走ると、それをやっている間は、自身の成長につながる取り組みがおろそかになります。

 

エゴの私たちからすると、これからどうなるのかは、実際のところよくわかりません。

 

やったことが返ってくる仕組みは、歪みをはらんでいたとしても、なんらかの機能を果たしています。

 

人として生きている限りは、自分の能力を高めることをできるだけしておく方が、どういう展開であってもより生きやすくなるため無駄にはならないですし、その先で本当に役に立つかどうかわからない目先の損得に没頭するよりもいいのではないでしょうか。

 

 

 

自らすすんで

 

厄の付け替えということは聞いたことがありましたが、搾取構造について、こういう仕組みで機能していることに昨日気づきました。

 

搾取されるというと、一方的に奪われるイメージがありますが、こうして考えると、弱者が勝手な思い込みでエネルギーを一方的に差し出すようなこともイメージできてしまいます。

 

そうなると、自分から進んで好きでエネルギーを奪われている、そういう考え方もできると思います。

 

 

 

法則を正しく使うために

 

お守りや数珠にお札やグッズ、奇跡や特殊な現象、虹を見たら幸せになるとか、結婚したら幸せになれるとか。

 

やったことしか返ってこない、そのことを例外なく見続けていくことが、法則の歪みをとって機能不全を改善し、意識を進化させる取り組みとなっていきます。

 

特別な映像や人を見てなにか意識レベルが上がると信じ込んでしまうとこともあるでしょうが、そこに意識レベルが上がるなりの私たち自身の取り組みが無ければ、知らず知らずのうちに、自ら好き好んで徳を付け替えるようなことをしてしまっているのかもしれません。

 

 

 

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