『徳(とく)』の付け替え 前編

『徳』を付け替える

 

「徳の付け替え」ということを考える機会がありました。

 

やったことが返ってくる因果応報という仕組みがあります。

 

これまで何度も書いていることなので簡単に書くと、生きやすくなることをすれば生きやすくなるようないいことが返ってくるし、生きづらくなるようなことをすれば生きづらく感じるわるいことが返ってきます。

 

前者は「徳を積み」、後者は「業(カルマ)を積み」ます。

 

 

 

それぞれの印象

 

これも何度も書いていますが、因果応報はやったことが返ってくる仕組みなので、やっていないことが返ってくることは基本的にありません。

 

通常、私たちがイメージしやすいのは、カルマの方だと思います。

 

なにかいやな事があると、それをもって反省することがあるのではないでしょうか。

 

しかし、徳も同じように返ってきます。

 

その返ってきたものを通して、神さまに守られている、なにかに助けられた、そう感じることもあると思います。

 

正しく物事をみて、正しく考えられるようになっていかないと、ありのままを認めることになりません。

 

実際どういう仕組みでどういうことが起こったのかは私たちではわかりませんが、自分のやったことであればそれを素直に認めることも大事な事です。

 

そこで冒頭の話になります。

 

 

 

自ら否定する

 

徳の付け替えというのは、自分のやったことが自分の身に起こるだけなのに、自分でやったことでありながら、思いこみでなにか他のお陰と思いこんでしまう事です。

 

そうすると何が起こるかといえば、自分のお陰でありながら、なにか他のものに対してその因果関係を結びつけてしまい、ご利益ととらえます。

 

そうなると何が起こるのか。

 

自分のやったことが無いことになってしまうのです。

 

結果に繋がる自分の取り組みを、無意識のうちに否定してしまうようになるのです。

 

そうなってしまうと、自分が無い状態で自分よりも御利益を与えてくれる対象を信じてしまい、それにすがろうとします。

 

 

 

はまり込む

 

たいして考えることなく生きていれば、

 

「特別ななにかは、自分に特別なご褒美をもたらす」

 

そう信じる生き方にはまりこんでいきます。

 

そこからは、さらなるご利益を求めて、せっせとあやかろうとするのですが、そうしている間は自分のためになることをせず、御利益を期待してその対象のためになることばかりするため、「一度に一つ」の理屈から、結果的に自分の成長に繋がることはせず、エネルギーを搾取される仕組みの中で貴重な時間を費やし続けることになります。

 

 

 

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